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「あれは?」

背後で止める声を無視して、庭に降りた。
やわらかな光を受けて香るのは、先ほど上がった雨にしっとりと塗れた緑の香だ。

「あちらは姫様の姉君様の許婚様であられますよ。」

歩くことを許された、庭の囲いの向こう。
子供は近づいてはならぬと言われていた棟に、年若い少年見えた。
その姿は、無駄に派手な物を好む父よりかは質素に見えたが、品の良い色の合わせはとても少年に似合っていたし、何よりも父が少年に対して大人にする様に礼を取っていたのが気に掛かった。

不思議な人。
年若だからという理由だけでなく、纏う雰囲気がまろやかに見える。
父とも、祖父とも、家に使える者達の中にもあのような人は居ない。

「許婚?」
「はい。今はまだ互いに年若でいらっしゃいますが、あと何年かしたら、姉君様はあちらの若様の元へ嫁がれることになります。」

許婚。
許婚とは、将来の婚姻の約定をされた者達のことを言うのだと知っている。

花嫁修業というものをしている姉君は、時折時間が空くと、室に呼んで雛(ひいな)遊びをしてくれる。
優しい姉上だ。
祝言というものをあげたら修業は終わるのだから、私と遊んでくれる時間は増えるだろうか?


声が聞こえたのか、少年と目が合った。
まさかこんな所に居るとは思っていなかったのだろう、ほんの少し目を見開いたようだ。
行儀作法というものは難しくて、こういう時にどうしたらいいのか、私にはまだわからない。
一緒になって目を見開いていると、少しだけ口元を緩め、笑ってくれた。
垂れた目尻が、優しそうだなと思った。
















「わたくしに、姉君の身代わりに嫁げと?」

大柄と言う訳でもないのに、父には荒々しい雰囲気がある。
成り上がり者よ、無骨者よと言われるのを嫌っているのは知っているが、そこまでしてあの家との繋がりが欲しいのか。

「あちらの希望である程度間は空けることにはなるが、お前には支度がある。今から取り掛かっても遅い位だ。お前が直接指示することではないが、知っておかねばならぬこともある。あまり余裕はないと思え。」

野太い声が伝えるその内容に、腹の底が重くなる。
武家の娘に産まれたのだ。
家の為の結婚に否やはない。

だが、せめてもう少し間をおくことができなかったのか。
代わりに嫁ぐことになる、その先妻は私の姉であったのだ。
せめて、ゆっくりと菩提を弔う余裕が欲しかった。
だが、仕方がない。
間を置いては、つけ込んでくる輩がいるかも知れない。
落ち目であると聞くとはいえ、あの家の血が欲しい輩は他にもいるだろう。
それは我が家が、私達が一番良く知っている。








婚礼の日、姉を見る男がそこにいた。
それは、夫と言えたのだろうか。













「寅、寅。また重くなった。」

庭先で幼子を抱き上げる男を見る。
抱き上げられているのは、継子であり甥である子供だ。
私が嫁いで来るまでは、父一人子一人で過ごしたのだ。
幼くして母を失くした境遇も手伝ってか、この親子は世の親子よりも仲が良いらしいと耳にした。

室内からの視線には気付いていないのか、その仕草はひどく自然だ。
男は、お家の当主。
日頃から人の目に晒されているせいか、行き急ぐように未熟な部分を削ぎ落としている様に見える。
目尻を下げ、息子をあやしている姿はほほえましいが、あの男は人の気配を感じれば子を降ろすのだろう。
当主としての己をよくわかっている。

以前、まだ姉も健在で、男がただの許婚であった時。
あの頃はもう少し、年相応の表情をしていたように思ったのだが。

男が長子に向ける顔は、記憶にある実家の父などよりよほど柔らかい。
何を思って息子に接しているのか、私にはわからない。
わかりたくはない。
それを知ってしまったら、私は何かを失くしてしまうだろう。
何も知りたくはない。

「今日は少々風が強うございます。羽織物をお出しして参りました。ささ、お体を冷やしてはなりませぬ。」

後ろから掛かった声が庭に漏れる前に、すばやく障子を閉める。
顔を合わせても、私にはどうしたらいいのかわからない。
男が振り返る直前、その目がこちらを向く前に戸を閉めることができた。
















「白兎様はほんにお体が弱くておられる。あのご様子で、果たして七つを超えることができるのか…」

聞こえてきた声に、ぴたり、足を止めた。

珍しく、供を連れずに歩けばこれか。
胸に詰まる思いを、ゆっくりを息を吐き出すことでどうにかやり過ごす。
たかが口さがない者達の戯言。
一々相手にしていてもこちらの評価が下がるだけだ。

二度、三度。
何度も息を吐いて胸中の毒を吐き出す。

そのままゆっくりと向き直り、元来た道を歩き出す。
自ら決めた量の稽古、それを一通り片付けたと思ったらこれか。
今日はもう部屋から出ることはないだろう。

見舞うつもりだった我が子を思い出す。
死ぬかと思うほどの、苦しい思いをして産んだ我が子は、ひどく弱弱しかった。
産まれた時など、産婆が何度も何度も叩いてようやく産声を上げたほどだ。
寅若と、白兎。
虎の字を持つ兄と違い、白兎はその名を現すように脆弱だ。
伝統だとは聞いたが、今となってはそれにすら恨みごとを言いたくもなる。
今日も今日とて、熱を出して寝込んでいると伝えられた。
だからこそ、顔だけでも見に行こうと思えばこれだ。

与えられた室に戻り、部屋の隅に片された小箱を取り出す。
蓋を開ければ、中にあるのは色とりどりの糸と針。
同じく脇に畳まれた、今はまだ布でしかないものを手に取る。
手仕事をしていれば、無駄に思い悩むこともないだろう。

白兎、白兎、白兎。
あの子は、育つことができるだろうか。
ぷつりと、指先に赤が浮かぶ。
みるみるうちに、玉になっていく色をじっと見つめ、腹を痛めた我が子のことを思う。
己の稽古事に時間を掛け、時たまにしか触れることのない子のことを思い出す。
私の産んだ子。
夫の嫡流。
姉の甥。
姉の子とは、従兄弟であり義兄弟でもあり実兄弟でもある子供。

家中であれほど声が聞こえるのは、純粋に心配しているからだけではない。
皆、気になるのだ。
あの子は育てば兄と家督を争える存在。
血筋で言えば、どちらが継いでもおかしくはない。
なのにあの弱さ、あの儚さ。
皆は見ているのだ。
姉の代わりに使わされた娘が、姉の代わりをこなすことも出来ずに過ごす惨めな様を。

手布を取り出して、血を拭う。
これではもはや手仕事もできない。
血を付けてしまっては、落とすのは用意ではない。
かといって、誰かに受け取って貰えるまで、自分で布を片す訳にもいかない。
何もかもが、私の思うままにならぬものだ。

















「そなた、兄よりも文字の覚えが遅いと言うではないか。何をしているのです。真面目に稽古に取り組んでいるのですか。」

久しぶりに見る我が子をきつく睨みつける。
赤子の頃に比べれば、熱を出すことも減ったとはいえ、それでもまだ弱弱しい子供だ。
今でも時折寝込んでいるのを知っている。

だが、いつまでもそのままで良いはずがない。
今はまだ武芸こそ教えられてはいないものの、他の稽古事が出来ない理由にはならない。
人は、母の違う息子二人を比べるだろう。
体が弱いのならば、他の事で負けることはあってはならない。
人に弱みを見せれば、その評判は必ず付いて回る。
私も、白兎も、人に弱みを見せてはならない。
当主の妻として。
正室の産んだ嫡流として。
常に相手を見返さなければ、逆にあざ笑われることになる。
その為に、私は今も努力しているのだ。
姉にはとても及ばなかった、所詮妹よ、と言われることのないように。

おかわいそうにとでも言いたげな、その奥で見下す目。
気の毒に、そう取り繕った奥の面白がる目。
気にすることはない、そう言った裏の軽んじる目。

そんな目を向けられる筋合いはない。
私は常に強くあらねばならない。
でなければ、当主の室として相応しくない。
誰に対しても、強く背筋を伸ばして。
哀れみの目などいらない。
































「・・・・・このっっ!鬼子めがっ!!!」

怒りのあまり、体全体が細かく震える。
握ったままの扇がぎちぎちと悲鳴を上げる。

これは、何をした?

おかしなことをしても、孤児を拾ったと聞いても、離れでの、奥でのことだと見逃してきた。
表には出ないことだと、そう思って見逃した。
それが。
それが悪かったのか。

体勢を崩し、転げたままの子供を怒りのままに見やった。
何を怒られているのかわからない。
そう言いたげな暢気な様子に余計に腹が立つ。
ただただ、びっくりしたとでも言い出しそうな白兎の様子に、頭の中で様々な声が聞こえる。
おかわいそうに。
唯一のお子があれでは。
奥に。
奥に下げられたと聞く。
あのご様子では、表に戻れるものだろうか。
また、熱を出されたとか。
姉君様の子である虎若様はお元気なのに。

様々な、今までずっと聞いてきた声が溢れる。
私は、私は、私は―――。




日がな一日、部屋に篭って針を刺した日。
自分のことだけでも覚えることは多く、さらにそこに正室の仕事。
夫の衣装を調え、お家の繋がりに気配りをする。
時間を見ては、やり残した稽古事を学ぶ日々。

私は、常に努力してきた。
誰に後ろ指刺されることもないはずだ。
誰にも、誰にも私を非難させることなど許さない。

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