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「…松岡様!しばしお待ちをっ。」

廊下の一角で呼び止められ、足を止める。
振り返れば、常よりやや早い歩みで駆け寄るのは屋敷の古参。
前当主の時代より仕えていたと言われる女だ。

「何用だ。」

古参といえども、単なる家人。
姓を持ち、家臣として当主に使える己等とは純然たる差がある。
同じく仕える存在である主の屋敷の廊下であっても、己とこの女が立ち話をすることなど、本来ならあまり褒められたものではない。
お互い長く同じ主人に仕えているものだからそれなりに知った間ではあるのだが、それでもあまり堂々と向かい合うものではない。
わざわざ呼び止めて、何用であろうか。

「…いえ、…あの…」

人を呼び止めた癖に、いざ用件を切り出す段になり気負いが出てきたらしい。
思えばこの女がこれほど戸惑うのも珍しい。普段は竹を割った様とは言わないが、それなりにすっきりした女であるのに。
せわしなく視線を這わせ、周囲に目を向けると、一転して思い切ったように口を開いた。

「…っ若様は!…二の若様はお元気であられましょうや?」

潜められながらも、それでも結果的にやや大きくなってしまった声音が、女の緊張を知らせる。
胸元で握りこまれた骨張った手も、何かを必死に耐える風情だ。
普段は己に用向きを伝える以外で話し掛ける事も控える女である。
長年培った概念を翻し、己に話し掛けるということだけでも、女にとっては大変な覚悟がいるらしい。

「二の若君?いや、以前、若君が元服の折にちらと見かけただけだが、何ぞあったのか?」

思いも寄らぬ相手のことを尋ねられて、己の知らぬうちに何かあったかと首を傾げる。

「いえ、私共は…。……私共は奥に下がられて以降、お目に掛かる事ができませんので。数年とはいえ、間近でお世話をさせて戴いた二の若君のご健勝を祈るまででございます。」

こちらが望む情報を持たぬと知り、その肩は傍目からもわかるほどがっくりと落ちる。
それでも落胆を如実に表すように尻つぼみになりながらも、己を呼び止めた理由を話し非礼を詫びる。

それでは、と頭を垂れ、去っていく後姿を視界に入れ、何とはなしに屋敷の裏手へ視線を流す。

「二の若君、か…」

確かに、己の主である屋敷の主人には二人の嫡流がいる。
腹こそ違うが、どちらも正しく主人の種であり、正室の子でもある。
だが、上の若君はともかく、二の若君に関しては己を含めたほとんどの人間の前に姿を現さない。
それは、いつからだったろうか。
何年も前に病弱を理由に屋敷の奥の離れに篭られている。
出入りするのは傍に仕えるわずかな家人だけ。
若君の乳兄弟でもある守役や、離れに移る際に付けられた家人の男が荷を運び入れるのを時折見かける程度だ。
若君自身の姿を見かけることも久しくなかった。

用向きの際に屋敷に赴く自分達と違い、古くから屋敷に使える家人達にとっては幼き頃より見知った若君。
すでに姿を見る機会もないとはいえ、幼き頃の姿を覚えている者にとっては健やかな様子を確かめたいと思っても無理はない。

まして、篭られた時期が時期だ。
可愛い盛りの幼子の姿であった時点から、今の今まで姿を見ることが出来なかったとすれば、気になるのは当然かも知れない。

自分こそ、先だっての若君の元服の折に遠目に拝見する機会こそあったものの。
近年増えた新参の家臣共に阻まれ、ろくにお顔を拝見することすら出来なかった。



そこまで思い出した所で、余計なことまで思い出して顔をしかめる。
かの若君のお傍近く、つまりは主家に近しい場所に新参が座したという事実をだ。
どうも最近の主人は、数年前から従い始めた新参者を重用しがちだ。

自分を含めた古参の家臣達は、ここ数年主人から遠ざけられている気がする。
古くから使えた自分達は、衰えるこの家を押し留めることが出来なかった負い目がある。だが新参の家臣とて、羽振りが良くなってから鞍替えしてきたにわか家臣である。
彼奴等ばかりが主の傍近くに侍るのは納得がいかない。

ぼんやりと考えに浸りがちな思考を切り替え、視線を戻し、不快な事実を振り切るように歩き出す。
磨き上げられた廊下は、基本的な作りこそ以前の名残を残すものの、以前と目の前の様子は天と地ほど違う。
以前の邸内はといえば、形式こそしっとりと赴き良く作られてはいたものの、その本質は質素の一言。

遥か昔、屋敷を構える山すそより流れ出した川に、富の礎となったという木々が流される風景が当たり前であった頃。
繁栄を極めた当時の面影は、男が仕え出す頃にはこの屋敷には残っていなかった。あったのは、修繕を繰り返し、丁寧に使われた権勢の残りかす程度。
それが今はどうだ。
家臣が増え、家人が増え、衰えゆくかと思われたことが夢であったように邸内は美しく飾られている。
人生の大半を質素に過ごして来た当主の意向で、派手派手しくはないものの、趣味良く華麗な屋敷はいまや周辺の武家の中でも知らぬものはない。

「………!……。」

常から気を付けている通り、背筋を伸ばし、艶やかに磨き上げられた廊下を渡る。
例え近年こそ主家よりの覚えが悪くとも、あの女と同じに、いやあの女よりも古くから使えている矜持がある。今は一時新参の存在があるとしても、長く仕え続けている自分達こそが最終的には用いられるべきなのだ。
時折、人影とすれ違う度に香るのはふんわりとした花の香り、すっきりと清涼な果実や草の香り。
ここ数年纏う者が増えた香りだが、不快ではない。あれは御家が栄えた証拠。家臣に至るまで身を飾れる証なのだ。

「……ぃ……ぁ…」

もう一度角を曲がった先。屋敷の表に程近い方向から声が聞こえてくる。
片方は区別が付かないが、焦ったような色の声を上げているのは先ほど己に話しかけてきた女ではないだろうか。女の身ではあるが、長く屋敷に仕えているだけあって邸内の大抵のことに通じている。そんな女が何を焦ることがあるのだろうか。

「申し訳ございません!全て私の不徳の致す所。この者には私からきつく言い渡しておきますので、どうかお許し下さいませ!」

興味をひかれ、ふと足を向ける。
廊下に面した部屋の戸は開け放たれ、中には頭を床に擦り付けんばかりに身を縮ませる年若い少女と先ほどの女が居た。

「まったくの躾不足としか言い様がないな。よりにもよって私に茶を掛けるなぞ。どうせ掛けるなら私ではなく、もっと他に相応しい存在がいるだろう」

無意識のうちに、眉間に皺が寄る。
まったく、嫌な所に出くわしてしまった。

「おや、松岡殿。お久しぶりですな」
「仁井田殿もおかわりなく。どうされた、この様な所で」
「どうもこうもありません。こちらの新入りが私の袖に茶を掛けたので叱っておった所です」

見ればなるほど、右の袖の袂近くに少しばかり茶のものと思われるもので濡れそぼっている。
置く際に零れたのか、それともふと触れ合ってしまったのか、そんな感じの濡れ具合だ。

「真に申し訳ございません!この娘には後ほど罰を申し付けますので、どうかこの場はお許し下さいませ」
「仁井田殿。もうその位で許してやったらいかがか。躾は大事ではあるが、あまりやりすぎても萎縮してしまいましょう」

先ほどから聞こえてきた声はこれだったのだろう。
自分がここにやってくるまで、どれほどの間叱責を受けていたのだろうか。少女の横顔は真っ白だ。女が気付いて取り成しに入る前からだとすれば、哀れなことだ。

「この様な者、さっさと暇を出して仕事の出来る者を雇い直せば良いものを」
「申し訳ございません。平に、平にご寛恕下さいませ」
「仁井田殿。使えぬのならば、仕込めば良い事。見ればまだまだ物慣れぬ様子、ここは一つ、仁井田殿の懐の深さを見せてやってはどうだろうか。ほれ、お前も仁井田殿にもう一度お詫び申し上げると良い」

軽く促すと、娘は床に擦り付けていた頭をやっと上げた。
両の目は今にも零れ出しそうに潤み、普通なら感情の高ぶりと共に高潮するであろう頬も逆に血の気が引いてしまっている。

「も…申し訳ございませんでした!」

それだけ言うと、仁井田の視線に耐え切れぬとでも言うように再び顔を伏せてしまう。

「仁井田様……」
「ふん。もう良いわ。寄ってたかって庇ったからとて、真実無能であるのならば近いうちに追い出されることに変わりはない故な」

家に入り込んだ猫を見つけたかのような目付きで仁井田は少女を睨みつける。
だが、不意に視線を外したかというと、嫌な色を含んだ視線をこちらへと向けた。

「よりにもよってなぜ私なのでしょうな?茶を掛けるのならば、もっと別に相手がおりそうなものを……」




快か不快かと言えば、不快。
だが、すでに慣れたものだ。眉の一筋動かすことも無く受け流せる。
主が正しく己を評価してくれることを待つだけだ。

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