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あの人が死んでどれほどの月日が経ったのだろうか?

遠いようにも、つい最近だったようにも思える。

朝起きて彼女の声を待ち。
花を見ては彼女の姿を探す。
振り向いた先に姿はなくとも、彼女を失った齟齬は日々様々な形で己の前に表れる。

けれど、彼女の顔を思い出せない。

己はそれほどまでに冷たい人間だったのだろうか?




彼女の声。
彼女の姿形。

共に語らった内容は覚えているのに、肝心なことを思い出せずにいる。







たった一つの忘れ形見。
自分の息子。

慣例通りの名を与えた息子は、生まれた時から彼女に似ていたように思っていたはずなのだが。
息子の顔を見ても、彼女の顔を思い出せない。
己に似てない部分こそが、彼女に似た部分なのだろうとは思うのだが、霞が掛かったように思い出すことができずにいる。


胸の奥を圧迫していたあの感覚はすでにない。
重苦しい内心を騙し騙し生活することはもはやない。

邸内を転げまわる息子の姿を微笑ましく見守り、時には笑うことすらも造作もない。
這うことを覚え、健全に育つ息子の姿を見れば嬉しいと思う。
時折訪れる友に会えば話も弾み、和やかに酒を酌み交わすこともある。

どれも素直に嬉しい、楽しいと思う。
実際にその場に遭遇すれば心浮き立つことも多い。
ただ、進んでそこに近づく気がしないだけだ。

嫌な訳ではない。
ただ、静かに過ごすことが好ましいと思うだけ。

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